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履修漏れ考

  • 2006年10月30日 23:50

先週から世間を賑わわせている公立高校の履修漏れ事件。ちょっと違和感を感じます。理由の一つは、今の報道全体が<履修漏れが問題である>というスタンスからしか捉えられていないこと。マスコミの使命が機能していません。今の日本のマスコミは、何か事があると揃って右向け右とばかりに同じ論調で報じますが、これでは世論あるいは、時の権力におもねって失敗した過去に何も学んでいないのと同じでしょう。報道の自由とえらそうなことを言う割には、こういうときに一方的な論調で報じるのはどうかと思います。
今回の問題は、公立校ともあろうものが決まりを破った、ということに対する責任云々に終始しているかのようですが、それ以前に履修漏れの科目に本当に必然性があるのか、という議論が全くないことに疑問を感じます。確かに高校は就学率が97%と、ほぼ全入に近い数字ではありますが、義務教育ではないステージであるのも確か。公立校という税金を使う立場にあるとしても、指導要領そのものの適切さということについての議論は必要なのではないでしょうか。この指導要領自体、時代に応じてどんどん変わっているわけで、wikipediaによると1960年以前は日本史・世界史・人文地理から2科目が必修、となっています。つまり、昔は選択できたし、それで何か偏った人間がいたかという検証もないわけです。よりよい方向を目指すというのは当然としても、戦後の混乱期ならともかく、今の時代に国が義務教育以降の指導項目を細部まで指定するというのはそぐわない〜というより無用なのではないか。指導要領はもっと大筋なものにして、あとは地域に任せてしまっても構わないのではないか。
かりそめにも公教育を扱う機関がこぞって「こっそり」違反をしていた、ということに腹を立てるのはわかるとしても、その根底にある現状や指導要領の意義や目的を問い直す姿勢を指摘する声があってもいいような気がします。
私自身は、公立高校が糾弾されるべき点は、違反ということ以前に、そもそも現状の課題や問題を教育委員会なり文科省なりに訴えて現状に即した形に変えて合法的に行おう、という動きをしなかったこと。そちらの方こそ、問題にすべきだと思います。それをしなかったということは、自らの正当性を感じていなかったとも言えますね。さっさと反省しちゃうぐらいのことなら最初からやらなきゃいいじゃないか、とも思います。一校ぐらい「こっそりやったのは悪かったけど、別に選択制にしたって一向に構わないという信念は揺らがない!」と主張するところがあったっていいんじゃないか、と感じた人も少なくないんじゃないですか?法令遵守の精神は大切ですが、そもそも決まりごとそのものの意義や目的を理解し、その適切性について議論する基本姿勢がなければ、<自由民主>ではない封建国家に逆戻りしてしまう。国民が自立する精神とそれを実現する教養を養うのが民主主義国家の教育目的にあるはずです。それが、世界史だの日本史だのを学ぶ意味なんじゃないでしょうか。そもそも。

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